8月15日、『東京新聞』社説。
「終戦記念日に考える 極限からのメッセージ」なる記事。
平和は未来を奪う。希望は戦争−。そんな過激な論文が若者の心をとらえ、共感を広げているといわれます。戦後六十二年、ちょっと悲しいものがあります。
「『丸山真男』をひっぱたきたい」というのですから、タイトルからして刺激的でした。論座一月号に掲載された赤木智弘さんの論文です。
丸山真男とは輝ける戦後知識人の時代を築いた東大教授。サブタイトルに「31歳フリーター。希望は、戦争。」とありました。参院選で自民党が歴史的大敗をした二〇〇七年のことしを象徴する論文となるかもしれません。
希望は戦争に深い絶望
論文での自己紹介によると、赤木さんは北関東の実家で暮らし、月給は十万円強。結婚もできず、親元に寄生するフリーター生活をもう十数年も余儀なくされ耐え難い屈辱を感じています。父親が働けなくなれば生活の保障はなくなります。
定職に就こうにもまともな就職口は新卒に限られ、ハローワークの求人は安定した職業にはほど遠いものばかり。「マトモな仕事につけなくて」の愚痴には「努力が足りないから」の嘲笑が浴びせられます。事態好転の可能性は低く「希望を持って生きられる人間などいない」と書いています。
今日と明日とで変わらない生活が続くのが平和な社会なら、赤木さんにとって「平和な社会はロクなものじゃない」ことになります。
ポストバブル世代に属する赤木さんの怒りは、安定した職業へのチャンスさえ与えられなかった不平等感に発し、怒りの矛先はリストラ阻止のため新規採用削減で企業と共犯関係を結んだ労働組合や中高年の経済成長世代に向けられていきます。
赤木さんにとって戦争は社会の閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない可能性の一つです。さすがに「私を戦争に向かわせないでほしい」と踏みとどまっていますが、「希望は戦争」のスローガンには多くの若者たちの絶望が隠れています。
件の赤木智弘の文章には注目していたけど、新聞にまで取り上げられるとは、驚きである。確か鈴木謙介やら大塚英志やら内田樹やらがそれぞれ赤木の文章に感想を述べていたから、赤木の
『希望は戦争。』というやつはよっぽどの衝撃だったのかもしれない。ちなみに、この社説は
痛いニュースで取り上げられていて、私はそこで2chの反応を知ったのだけど、ネット右翼と親和性の高そうな赤木の主張がかなり冷淡な目で見られていて、これはちょっとショックだった。別に2chが右曲がりな一枚岩だとは思わないけど、そうか2chみたいな場所でも格差問題は「努力不足」の問題として片づけられてしまうのか。
戦争という言葉にに対してこれほどの拒否反応が示されるというのはある意味で健全なのかもしれないが、しかし我々の世代に通底しているかと思われた「絶望の感覚」は意外に共有されていないのかもしれない。
以下、超長文。
赤木智弘が『論座』に書いた
「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(ついでにその続編である
こちらも)を私は比較的高く評価しているが、どうも彼の真意を正確に捉えている人は少ないように思える。その理由はひとつにはタイトルが
「希望は、戦争。」となかなかにキャッチーだったことで、そのために多くの論者が
「戦争はイカン! そゆこと言うお前もケシカラン!」とヒステリックに反応してしまっているためだが、そうやって戦争の是非を問うよりも、まず彼が何故
「希望は、就職。」でも
「希望は、社会的不平等が是正されること。」でもなく、
「希望は、戦争。」と書いたのか、その点を考えた方が議論は建設的だと思う。
ことの本質は格差・雇用・フリーター問題であったはずだ。これまで、これらの問題下にあって虐げられ苦しんできた弱者の救済を謳い、弱者を生み出す社会構造の変革を掲げてきた左翼系言論人が、赤木の絶望的な文章に触れた途端、
「お前よりもひどい目にあっている人もたくさんいる」とか
「それならお前が頑張ればイイジャン」とかそういうどこかで聞いたような「自己責任論」へと先祖返りしてしまうのを見ていると、ずいぶんと左翼思想家というのは軟弱なんだなあという感想を抱いてしまう。一介のフリーターの一突きで化けの皮が剥がれてしまう左翼系言論の思想的脆弱さこそが、下流にある若者達を右へと走らせているのではないだろうか。
ただし、左翼にも同情の余地はある。
これまでも左翼系運動の多くはその目標に社会的マイノリティの救済を掲げていたわけだけれども、現在出現しつつあるマイノリティ(弱者)は、これまでの社会的弱者であった「在日」「女性」「被差別部落」「障害者」などとは明らかに一線を画している。これまでの弱者は、彼らが属するカテゴリは生得的なもの(あるいは不可避なもの)であり、そのカテゴリから抜け出すことができないという事情があった。日本人でないから、女性だから、障害者だから差別されるということが不当なのは誰もが同意できる。なぜならそのように生まれついたのは当人の責任ではないからだ。だからこそ彼らは問題を共有し、彼らの置かれている立場が不当であると訴え、社会的に認知されることができた。だが、フリーターであることは生得的ではないし、そこから脱却することも不可能ではない。そのことが問題を一層深刻にし、この問題の理解と共有を妨げている。左翼連中はおそらくこの新しいマイノリティの出現を理論的に把捉できないでいるのだと思う。それ故に、彼らは「君たちは
頑張れば現状から脱却できるんじゃないのかね?」と無思慮に言えてしまうのだ。
赤木のようなフリーターは経済が要求するところにより生産されている。彼のようなマイノリティは社会が構造的に生み出しているのである。だが増えすぎたフリーターやニートは社会のお荷物である。引き取り手のいないお荷物となった彼ら(いや、我々か)を、社会はリサイクルすることよりもゴミとして捨ててしまうことを選んだ。利用価値のないゴミとなったのは我々の努力不足が主因である、というのが、奴らの主張である。
もし、彼らが「君たちにはすまないけれど、我々の老後と若い世代のために死んでくれ」と言うのならば、我々の世代の苦痛はいくらか和らいだかもしれない。我々の痛みに対し、ねぎらいといたわりの言葉があったのならば、社会の犠牲となって「戦死」することにも意味を見いだすことは可能だ。しかし彼らは我々の犠牲は「自業自得」だと言う。
赤木の「希望は、戦争。」はこのような無理解を背景にして出てきた言葉である。
赤木が求めているのは、既に「救済」ではない。救済されること就職し安定した生活をすることが目的であるならば、「希望は、戦争。」とは書かない。仮に赤木が安定した仕事に就き、それなりに社会的地位を得たとしても彼が社会的に虐げられていたという事実は変わるわけではないし、またそのような人がいる現状が変わるわけでもない。むしろそのことによって問題の本質が隠蔽されることの危険を赤木は十分に理解しているだろう。
また赤木の要求は「社会構造の変革」でもない。現状が構造的に赤木のような社会的経済的弱者を生産していることは確かだが、その構造改革を促すことは赤木の目的ではない。改革は行われるべきだろうが、それはそもそも赤木のすることではない。
赤木のあの文章の目的は、サイレントマイノリティとなった我々の声を届かせること、透明な我々の存在を可視化することにあると、私は見ている。我々の世代は単に不可視なだけではない。不可視なままゆっくりと死に追いやられている。我々が払った犠牲に一顧も与えず、そこを通り過ぎようとしている。このままでは、同じ死ぬにせよ、本当に無駄死にになる可能性が高い。
それならば、はっきりとわかりやすく犠牲が出る戦争のほうがまだマシだと彼は言おうとしているのだろう。
我々の社会は一人の人間を戦争待望論へ向かわせるほどの犠牲を払っているのだ、という認識を持つことは可能だろうか。「戦争で死ぬこと」と「このまま生きること」が一人の人間の中で等価となっていること、その問題の大きさを我々は認めるべきではないだろうか。赤木の議論に賛成するにせよ反対するにせよ、まずそこが出発点になるのではないだろうか。
テーマ:格差社会 - ジャンル:政治・経済